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ミルグリムの旅路
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初期 THE EARLY YEARS

リチャード ミルグリムが最初に陶芸に興味を持ったのは、エマーストのマサチューセッツ州立大学1年生の時(1974年)のことである。74年春と秋、陶芸の 基礎クラスに大方の時間を費やし、その結果、もっと個人的な教育を受けるべく、より小規模な大学へ転校することになる。

1975年の夏、オハイオ州イエロースプリングスのアンティアック大学に通い始め、この変化は、リチャードが日本と茶陶の世界を見い出すことへと直接繋がることとなる。

その夏の間、リチャードの先生達キャレン シャーリーと、マイケル ジョウンズが、世界中のいろいろな焼き物を紹介してくれ、特に二人が愛する日本の陶器 を、リチャードが初めて知ることになる。この二人の若い頃1960年代はじめ、まだ西洋人がまれだった京都に実際に住んだことがあったのです。彼らの日本 での経験は、彼ら自身の生活や美意識に深い影響を持たらした。リチャードは二人が収集した日本の焼き物に触れ、日本の作陶技術を教えられ、様々な日本の話を聞くことになるのです。

ほぼ時を同じくして、ハロルド ライト教授がアンティアック大学の教壇に立った。ハロルドも朝鮮戦争の頃、日本に居着き、日本との長いつながりを持った人 です。戦後彼はハワイ大学で2学位を取得、日本文化、中でも文学の学者になり、それに続いて、当時コロンビア大学で高名なドナルド キーン博士の元で研 究生活を送った。彼は自身の詩も書き、万葉集の和歌や、谷川俊太郎の現代詩の翻訳なども手掛けた。

これらの先生達や、同じように日本の魅力のとりこになっていた先輩達の影響 下で、リチャードは自分の肌で日本を体験したいと思うようになった。

アンティアック大学には、AEA(ANTIOCH EDUCATION ABROAD)というユニーク なカリキュラムの選択があり、1年間の海外での体験がそのまま単位になるというものだった。リチャードは自由にプログラムを組んで、日本で1年間過ごす ことを決める。まず初め、ホームステイしながら京都に近い枚方にある関西大学の日本語集中講座をとり、日本語の基礎の勉強に2ヶ月間を費やする手は ずを整えた。その後の10ヶ月間は現代日本における伝統的な陶芸の研究に目標を定めた。


旅路 THE PILGRIMAGE
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1977年1月から12月までの1年間、リチャードは日本に住む。寒い冬の2ヶ月は、想像していた日本の生活とは、まるでかけはなれた郊外で暮らしながら、形式的な日本語の初歩を学ぶ。

日本語短期集中講座を終え、クラスでの親友マーク スタンレーと、韓国に旅行に出る。幸いマークは、ソウルに何年も住んだことがあり、言葉が堪能だった ので、韓国の本当の文化や歴史が窺える田舎も不自由なく旅することが出来た。リチャードは、500年も前から日本に陶器を送り込んでいるような窯元を含 む昔からの窯場を見て回り、日本に戻り次第 彼自身で窯場巡りを、という思いを募らせた。

日本に戻り、リチャードは古い都であり日本文化の中心である京都の町中に移 り住んだ。その後の数ヶ月は京都近辺の窯場をあちらこちら訪ね、古都を隈無く歩き回った。こうした日々は、リチャードが日本語を覚え、日常の生活習慣や 暮らし振りを理解し、特に京都文化を知る上で計り知れないほど役立った。様々な寺院・神社・美術館・庭園・歴史ある店々等から限りないインスピレーショ ンを受け、毎日の新発見はこの上ない喜びだった。また、若い陶芸家の卵にとって、日本の中でも最も高い文化水準と世界から認められている京都の工芸と伝統美術に触れ目を肥やす好機でもあった。

京都暮らしも落ち着き、日本語にも多少の自信が持てるようになり、日本全国旅行に出ることを決め、梅雨を避けるために、北海道に向けてスタートすること にした。6月中旬彼は、日本全国の窯元とその簡単な紹介のガイドブックをナップサックに入れ、まず高名な濱田庄司 (1894-1978) やその高弟島岡達三 (1919- ) が、民芸の町として有名にした益子までヒッチハイクした。日本政府から人間国宝に最初に指定された工芸家の一人として、濱田庄司は西洋では伝 統的な日本の民芸作家の最高峰と見なされていた。彼は河井寛次郎 (1890-1966) ・バーナード リーチ (1887-1979) ・柳宗悦 (1889-1961) と共に1926年民芸会を設立した1人だ。

濱田や島岡に関する簡略な知識を持って益子を訪れたリチャード青年にとって、この巨匠と共にお茶を飲み、静かに英語で語り合うという夢のような機会を得 て、益子訪問は日本滞在中のハイライトの一つとなった。

後でわかったことは、島岡は濱田の高弟であったばかりではなく、彼の隣人で もあったということだ。驚いたことに、リチャードが益子を訪ねた当時、島岡の弟子としてアンティアックの卒業生ディヴィッドヴィタレリが働いていた。二人はす ぐに友達になり、意外にも島岡先生は、リチャードに数週間滞在して先生が築いた4室からなる薪と塩の窯の窯焚きに参加していくよう勧めてくれた。

益子の工房に3週間留まった後、旅を続けることを決めたリチャードだったが、
心の中ではまたここに戻りたい思いだった。リチャードは益子に戻ることがあれ ば島岡先生の弟子にとお願いし、先生から許可をいただいた。

そんな希望を持って、日本全国(本州・北海道・九州・四国)の新旧の窯場を見 て回る旅に発った。1人でヒッチハイクをしながら旅行したおかげで、日本語が瞬く間に上達し、旅路のあちらこちらで出会う日本人の寛大さ・親切心に絶えず感激し通しだった。

5ヶ月間で沖縄県以外のすべての県を訪れ、100人以上の陶芸家と会った。この旅の間に九州に二人、京都に一人弟子にして欲しいと真剣に考える陶工 達を見つけ、益子を含め4人の先生が将来弟子として迎えることを承諾してくれた。

日本にそのまま滞在し、すぐにでも修業を始めたい思いだったが、翌春アンティ アックを卒業し人生の次のステップを踏むべく、1977年12月アメリカに帰る決意をした。


アメリカに戻って -- 転機
Back in America -- The Turning Point

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アンティアックに戻って後、予想外の事が次々に起こり、日本に引き返すのは79年の夏まで延びる事になる。振り返って見れば、その1年半はリチャードが次 に日本に帰った時の良い準備期間になったようだ。結局、京都の陶芸家岩渕重哉(1925〜1993)の元で修業しながら裏千家で「茶道」を学ぶためにトー マスJワトソン奨学金に1978年の秋申し込みをする。リチャードは濱田に魅せられこよなく民芸を愛していたが、日本全国の各美術館で見てきた16・17世 紀の茶陶により興味を引かれている自分に気が付いた。彼は茶道具を作ってみたいと強く望んでいたが、その背景も機能もまったく知らなかったので、奨学 金の申し込みの時に「"茶の湯"の勉強」を加えたのだった。幸い京都の裏千家には、茶道を学びたい外国人の為の学校があり、1970年以来外国からの真 摯な学生を訓練するコースで「みどり会」と呼ばれていた。

弟子入りを決めた岩渕先生は素晴らしい芸術家であり工芸家でもあって、二人 の人間国宝富本憲吉(1886〜1963)・近藤悠三(1902〜1985)の元で修業をした人だった。リチャードは77年の秋、京都の醍醐にある工房をたびた び訪れ、先生から彼が日本に戻った際には弟子として受け入れるという許可をもらっていた。奨学金の申し込みには、週三日間の弟子修業、あとの三日間は裏千家の学生にとお願いした。 

1978年から79年にかけての冬、ワトソン基金からの返事を待つ間ボストンの家に帰りそこで長年京都で茶の湯を勉強してきたアラン パーマーという良い 先生を紹介される。リチャードは千家の祖千利休の388回忌に当たる79年2月28日に茶の湯の道に入門した。正式に「茶道」を勉強しはじめて2週間もた たないうちにワトソン奨学金が授与されるという知らせが届く。また同時にニューヨークのジャパンハウスギャラリーのディレクターであるランド キャスティー ル氏に紹介されるという事が起る。ギャラリーでは"茶の湯"と題して、日本から100点余の傑作を披露する大展覧会の幕を開けようとしていた。それは特に 茶の湯の芸術に焦点を絞ったアメリカでは初の大展覧会だった。リチャードは前年の夏ハーバード大学のフォグ美術館で、日本美術の権威ジョン ローゼン フィールド教授のもとで、インターンとして仕事をしたことがあった。教授はリチャードの茶道と日本陶芸への興味や日本語の能力を挙げて、その展覧会に関 わる仕事を彼にと、キャスティール氏に推薦してくれたのだった。

このことは、日本の代表的文化人で、当時裏千家15代御家元千宗室氏との 予期せぬ運命的な出会いへとリチャードを導き、彼の人生の次の段階へ進む道が開かれることになる。千氏は茶の湯展の後援者であったのはもちろんのこ と、当時の茶の湯の世界ではもっとも影響力のある人物だった。

正式なオープニングの前日、リチャードはアンティアック時代の先生マイケル  ジョウンズ氏を案内していた。と突然着物を着た紳士に、会場で何をしているのかと尋ねられた。まったく驚いたことに、リチャードはこの瞬間御家元とその 奥様に直接対面していたのだった。彼らも個人的に下見に来ていたわけで、千氏は、この警備なしの会場でこの二人は何をしているのかと訝り、リチャードに 質問し始めた。まず、リチャードは先生を紹介し、次に彼の会場での案内・通訳としての仕事を説明した。続いて彼は御家元に、秋から京都に行き、よりよく茶 の湯を理解し知った上で茶陶を作るために「みどり会」に入学する旨を告げた。御家元は、日本中にいる友人で有名な陶芸家達を紹介してあげるから、自分 に会いに来るようにとリチャードに名刺を手渡した。このことがリチャードの将来にどれほど大きな役割を果たしたかその時は知る術もありませんでした。

この時を得た偶然が、リチャードの人生における最も大切な人間関係の始まりとなった。御家元御夫妻とリチャードの間には魔法のようでしかもとても自然で 温かな空気が流れていた。オープニング当日、御家元はリチャードを各界の錚々たる人達に紹介してくれ、様々なまたとない御縁を得て、彼の行く手は大きく開かれているように見えた。


再び日本へ RETURNING TO JAPAN
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1979年7月 リチャードがワトソン奨学生として京都に戻ったその時から、事がスムーズに流れ始めた。最初の1ヶ月間は、亀岡にあった大本伝統芸能学 院に泊まり込みで参加した。それは茶道・武道・能楽・書道・墨絵・陶芸などの集中プログラムから成るもので、1年半日本を離れていたリチャードにとって、 また意識を日本に戻す良い機会となった。ここで彼は日本語を思い出し、心理的にも精神的にもこれからの弟子修業と茶道に専念する準備を整えていった。

京都に帰って間もなく、彼は千 宗室御家元の自宅を訪ねて温かく迎えられ、御家元から、頑張って良い作品を見せに来るようにと励まされる。リチャードは 嬉しかったものの、日本の徒弟制度を知っているだけに、工房の中での新米に自分の作品を作るチャンスなどあるのだろうかと気が重かった。

4ヶ月程して岩渕先生の最古参の弟子が独立し、80年1月やっとリチャードが仕事のできるスペースが確保出来た。3月までに1週間に3日だけ工房で仕事 をするのでは不十分という思いが強くなり、「茶道」の基礎的なことも学べたので、そろそろ陶芸に専念する時期が来たと感じていた。御家元にお話しすると、陶芸に集中することに同意して下さった。

続く1年半程岩渕先生の元で修業し、時たま御家元に作品を見ていただいた。丁度1年が経った頃茶碗を数椀持参し御家元が箱書するに足ると見なし、これ がリチャード作品の箱書の第1号となった。岩渕先生の弟子修業を終えた1981年秋、御家元より伝統ある萩・備前・美濃の窯元達に紹介していただくことになる。

1982年から84年の春まで、リチャードは幸運にも、茶陶の代表的な窯元、萩12代田原陶兵衛・備前藤原 雄・美濃加藤光右衛門の3作家の元で修業する ことになる。土・釉薬・テクニックそれに窯焚とそれぞれ特長ある焼物を学んだことで、独立して自分のスタイルを作る上で、計り知れない程素晴らしい土台が出来たのだった。

1984年春京都市北西の山村日吉町四ッ谷に土地と古い田舎家を見つけてから、婚約者皆川真理を連れてボストンに戻り、アメリカスタイルの結婚式を挙 げる。7月末日吉町に帰り、冬が来る前に何とか住めるように家を直し、古い納屋を工房に仕立てる。翌春リチャードは、同町に住んでいた友人のノルウェー 人陶芸家ソーレン ウービシと一緒に、萩12代陶兵衛先
生の窯と同じような重油と薪の単窯を築き始める。

窯の名前を付ける時になって、リチャードは一般的な住んでいる村や町名をと 考えたが、御家元に相談すると、彼の考えは違っていた。苗字のミルグリムは日本人は発音しにくいので、RICHARDは常に名前のリチャードで呼ばれていた 。御家元はRICHARDを日本語で発音するように"利茶土窯"が良いと漢字まで選んで下さった。RIは千家の祖 千 利休から「利」を、CHAは「茶」、DOは「土」 とまるでリチャード自身の意識外の力が働いて、運命が定まっていたかのように本名とライフワークが一致していた。きっと御家元もそのように思われたのか 、1985年光栄にも"利茶土窯"の扁額をいただくことになる。

その後15年間利茶土は、アメリカ人の資質を持ちながら、歴史にも残る名品も 常に頭に置き、彼独自の茶陶制作に情熱を注ぐ。利茶土は日本各地のデパートの美術画廊・寺院・美術館・画廊等で個展を開いてきた。彼の作品は色々な 国際陶芸展で選ばれ、日本では淡交ビエンナーレで受賞、日本陶芸展には1995年から毎回入選を果たしている。

2000年 利茶土は京都の工房はそのままに、ボストン近郊にも工房を構える 決意をし、アメリカと日本との往復が始まる。マサチューセッツ州コンコードの自宅近くの地域芸術センターEMERSON UMBRELLAに工房を確保し、アメリカの土と釉薬での茶陶造りに挑戦している。

2004年の秋、大宗匠はコンコードでの作品にも窯名を下さり"今古窯"となった。コンコードを日本語発音した場合に同音の「今古」を当てて下さったわけだ が、「今」は新しい・現在・現代であり、「古」は古い・過去・もしくは伝統ということでもある。この場合コンコード作の利茶土の新作品は、今まで日本で作ってき た伝統的作品に対して新しいスタイル・新釉薬ということであろうか。350年続いている裏千家今日庵の「今」をいただいたことで、千家と利茶土との絆がさらに深まった。

注: 2003年裏千家15代御家元は千 玄室鵬雲斎大宗匠になられ、千 宗室坐忘斎御家元が16代を継承された。 

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